リード
「言葉が出る前から、手で意思を伝えられる」「IQ が高くなる」「言語発達が早まる」。ベビーサインを紹介する書籍やワークショップの宣伝文句は、ここ 20 年でずいぶん豊かになった。
実際にやってみた家庭の手応えは、おおむね温かい。「ミルク」のサインで朝の意思疎通が少し楽になった、「もっと」のサインで離乳食の量がわかるようになった、というような小さな成功体験は、たしかにある。
問題は、これらの実用的な小さな成功と、「言語発達が早まる」「知能が高くなる」という壮大な売り文句の間に、エビデンス上の大きな段差があることだ。本稿は、ベビーサインに反対する記事でも、推進する記事でもない。メタ分析・系統的レビューが何を言っていて、何を言っていないかを、できるだけ穏当に整理する。
始まりは Goodwyn と Acredolo
ベビーサインを学術的に最初に紹介したのは、カリフォルニア大学の Goodwyn と Acredolo だ。彼らが 2000 年に Journal of Nonverbal Behavior に発表した論文は、11 ヶ月児 103 名を 3 群に分けた小規模 RCT: 参加者を治療群と対照群にくじ引きで割り付けて効果を比較するランダム化比較試験。エビデンスレベルが高い研究デザインとされるで、シンボリックジェスチャー: 乳児が単語を発する前の段階で、物事を表すために使う簡略化された身振り。「ミルク」「もっと」などを表現するベビーサインがその例(赤ちゃんのための簡略化されたサイン)の使用が言語発達を妨げず、むしろわずかに促進する可能性があることを報告した [1]。
この論文は、その後の商業的なベビーサイン産業の根拠としてよく引用される。映画『ベイビー・トーク』(Meet the Fockers)でロバート・デ・ニーロが孫にサインを教えるシーンは、Acredolo らの研究を一般に広く知らしめる助けになった。
ただし、Goodwyn と Acredolo の原論文を読み直すと、慎重な書きぶりが目立つ。サンプルは小さく、効果サイズも小さく、結論部分では「シンボリックジェスチャーが verbal development を妨げないし、ひょっとすると facilitate するかもしれない」という限定的な表現にとどまっている [1]。「妨げない」と「促進する」の距離は、研究としては大きい。商業的な伝言ゲームのなかで、ここがしばしば「促進する」のほうに丸められた。
メタ分析が見た、もう少し冷めた像
Goodwyn ら以後、ベビーサインの効果を検証する研究はいくつか続いたが、結果は安定しなかった。2005 年、Johnston, Durieux-Smith, Bloom は雑誌 First Language で、ベビーサインに関する 17 本の文献の系統的レビュー を行った [2]。彼らの結論は明快で、
「ベビーサインが定型発達児の言語発達を促進するという主張を支持する科学的根拠は、現時点では不十分である」
というものだった [2]。理由として彼らが挙げたのは、
- サンプルサイズが小さい
- ランダム化が不十分、または対照群の設計が弱い
- 「サインを教えた群」と「対照群」で保護者が子と過ごす時間量や声かけ量が均等でない(つまりサインの効果ではなく、声かけ量の効果を見ている可能性がある)
といった、研究設計上の問題だった。「効かないと示された」のではなく、「効くと示すには、現状の研究は穏当でない」が正確な要約である。
その後、Kirk らが 2013 年に Child Development で発表した 最初の本格的な RCT が、状況をより明確にした [3]。生後 8 ヶ月から 20 ヶ月までの 40 名の母子を、シンボリックジェスチャー訓練群・口頭ラベリング訓練群・対照群の 3 群に分けて追跡したこの研究では、
「ベビーサインに割り当てられた群と、対照群および口頭ラベリング群との間に、言語発達上の有意差は見出せなかった」 [3]
と報告された。介入そのものに言語促進効果はなかった、というのが直接の結論だ。
さらに 2014 年、Fitzpatrick らが First Language で系統的レビューを更新した。1990 年から 2013 年までに発表された 10 本の研究を対象に、彼らは 「ベビーサインがコミュニケーション発達を改善するという証拠は明確でなく、同時に通常の言語獲得を阻害するという証拠もない」 と総括している [4]。
「効果あり」を示した初期の小規模研究と、「効果なし」を示した比較的厳密な RCT が並走しており、メタレベルでの全体像は「言語発達への明確な促進効果は確認されていない」が現時点での穏当な要約だ。
それでも親子のやりとりは変わる
ここで終わると「ベビーサインは無意味」という結論に丸められてしまうが、それは正確ではない。
Kirk らの RCT では、言語発達には差がなかった一方で、シンボリックジェスチャー群の母親は、対照群より子の非言語的サインへの応答性が高く、子の自律的な行動をより促していたことが報告されている [3]。つまり、サインを学ぶプロセスそのものが、保護者の観察と応答性を変えていた可能性がある。
Doherty-Sneddon らは、ベビーサインの議論を整理した論考のなかで、「ベビーサインの効果はサインそのものから来ているのではなく、サインを介して保護者がより注意深く子を観察するようになることから来ているのではないか」 という解釈の枠組みを提示している [5]。「言語発達を加速する魔法のツール」ではなく、「保護者の応答性を高めるための媒介」 として捉え直すと、エビデンスとの折り合いがつきやすい。
これは Kirk らの主張とも整合する。商業的な売り文句から離れ、「親子のやりとりの質が変わる遊び」として位置づければ、ベビーサインは引き続き穏当な選択肢として残る。
やってもいい、やらなくてもいい
ベビーサインに関して、エビデンスから穏当に言えることをまとめると、次のようになる。
- 言語発達を有意に早めるという強い証拠はない [2,3,4]
- 言語発達を妨げるという証拠もない [4]
- 親子のやりとりの応答性を高める可能性は示唆されている [3,5]
- 子に「言葉が出る前に意思を伝える手段」を提供できる、という実用的な利点はある(これはエビデンスというより、機能の話)
つまり、ベビーサインは「子の将来の認知発達のための投資」ではなく、「今のやりとりを少しだけ豊かにするための遊び」として位置づけるのが、研究との距離感としては適切だ。商業的なプログラムに高額を投じる前に、無料で配布されているサイン一覧で 3〜5 個から始めてみる、というくらいの軽さが、エビデンスの厚みに見合っている。
導入を決めるときに頭に置いておきたいのは、サインの数や正確さよりも、やる側(保護者)が楽しめるかのほうだ。Kirk らが示唆したように、効いているのはサインそのものではなく、サインを介した保護者の観察と応答性の上昇である可能性が高い [3]。やっていてしんどくなるなら、効果のメカニズムが先に止まる。
記録という、もうひとつの観察
ベビーサインに限らず、子が初めて何かのサインを「使った」とき、それは小さなマイルストーンだ。「ミルク」のサインを初めて出した日、「もっと」を見せた瞬間。これらは育児書のマイルストーン表には載っていないが、その家庭にとっての固有の達成である。
Memori のような月齢順に並ぶ記録の仕組みは、こうした「家庭ごとのマイルストーン」を残すのに向いている。汎用のマイルストーンを完璧に追うより、自分の子と自分の家庭に固有の小さな達成を残すほうが、たいてい後から見て豊かな記録になる。それは、ベビーサインをやる場合にも、やらない場合にも、変わらない。
まとめ
ベビーサインが言語発達を加速するという宣伝には、現時点で十分なエビデンスがない [2,3,4]。一方で、保護者の応答性を高める遊びとしての価値は否定されていない [3,5]。やってもいいし、やらなくてもいい。決め手は将来への投資効率ではなく、今のやりとりが楽しくなるかどうかのほうにある。エビデンスが穏当に支持するのは、ちょうどそのくらいの軽さだ。
References
- Goodwyn SW, Acredolo LP, Brown CA. Impact of Symbolic Gesturing on Early Language Development. J Nonverbal Behav. 2000;24(2):81-103. doi:10.1023/A:1006653828895.
- Johnston JC, Durieux-Smith A, Bloom K. Teaching gestural signs to infants to advance child development: A review of the evidence. First Language. 2005;25(2):235-251. doi:10.1177/0142723705050340.
- Kirk E, Howlett N, Pine KJ, Fletcher BC. To sign or not to sign? The impact of encouraging infants to gesture on infant language and maternal mind-mindedness. Child Dev. 2013;84(2):574-590. doi:10.1111/j.1467-8624.2012.01874.x. PMID: 23033858.
- Fitzpatrick EM, Thibert J, Grandpierre V, Johnston JC. How HANDy are baby signs? A systematic review of the impact of gestural communication on typically developing, hearing infants under the age of 36 months. First Language. 2014;34(6):486-509. doi:10.1177/0142723714562864.
- Howard LE, Doherty-Sneddon G. How HANDy are baby signs? A commentary on a systematic review of the impact of gestural communication on typically developing, hearing infants under the age of 36 months. First Language. 2014;34(6):510-515. doi:10.1177/0142723714561342.