リード
夕方、何でもない場面で、子の口からその一言が出る。「ママ、きらい」。あるいは「パパ、あっちいって」。理由はよくわからない。さっきまで膝の上で笑っていたのに。
頭では「子どもが言うことだから」とわかっている。それでも、胸の真ん中が少しだけ冷たくなる。夜になっても、その一言だけが頭に残る。
この記事は、そう言われた日の自分のための処方箋を、いくつかの角度から書いてみたい。子をどう育てるかではなく、そう言われた親のほうがどう自分を扱うか、という話である。
幼児の「嫌い」は、辞書通りの意味ではないことが多い
2〜5 歳ごろの子が「嫌い」と口にするとき、その言葉が大人の使う「嫌い」と同じ意味であるとは限らない。発達言語学の蓄積を踏まえると、この時期の子はおおまかに次のような事情を抱えている。
第一に、感情を表す語彙の絶対数が少ない。Ridgeway らが 18 ヶ月〜6 歳の児を対象に作成した感情語の発達規範では、「happy」「sad」のような基本感情語は 2 歳前後から産出が始まる一方、「disgusted」「annoyed」「nervous」のような分節度の高い感情語は 5 歳近くまで産出されない [1]。日本語でも同様で、「悔しい」「不安」「もどかしい」を 3 歳の語彙で表現することはできない。
第二に、他者の心の状態を区別する能力(心の理論: 「相手がどう感じているか」を推測する認知能力で、3〜5歳ごろに発達する)が発達途上にある。Wellman・Cross・Watson の 178 研究を統合したメタアナリシス: 複数の研究結果を統計的に統合し、より信頼性の高い結論を導く手法では、誤信念課題の通過率は 3 歳代で偶然以下、4〜5 歳でようやく偶然以上に上昇するパターンが、国や課題条件を超えて一貫していた [2]。「ママはこう言うと悲しむ」「自分の発言と相手の感情は別物だ」という分離は、未完成の段階にある。
第三に、強い言葉のほうが大人の反応を引き出しやすいことを、経験的に学習している。
これらが合わさると、本来なら「いま思い通りにならなくて悔しい」「眠くてしんどい」「テレビをもっと見たかった」と表現したい感情が、手持ちの語彙のなかで一番強い「嫌い」に丸められて出てくる。
つまり「ママ嫌い」は、「あなたが嫌い」ではなく「いま、この状況が嫌い」であることがほとんどだ [1,2]。これは慰めではなく、発達上の事実に近い。
ただし、事実として知っていることと、言われた瞬間に傷つかないこととは別の問題だ。
傷つかないようにする必要はない
育児に関する助言の多くは、「気にしないで」「成長の証だから」と、親の傷を急いで畳もうとする。この方向は、半分は正しく、半分は雑だ。
正しいのは、「あなたの存在価値が否定されたわけではない」という情報を渡している点。雑なのは、実際に傷ついている事実を、なかったことにしようとしている点である。
愛情を注いでいる相手から強い言葉を投げられて、何も感じない人間のほうがむしろ稀だ。傷つくのは、ちゃんと向き合っている証拠でもある。傷ついた、という事実を自分に対して認めるところから、次の一歩が始まる。
「気にしないようにしよう」と蓋をするのではなく、「いま、自分は傷ついている」と一度言葉にする。その上で、子に対する次の関わり方を、冷静に選んでいく。順番が大事だ。
「その瞬間の返し」より「翌日の続き」
「ママ嫌い」と言われた瞬間、何と返すのが正解か、と考えたくなる。だが正直なところ、その瞬間の一言で何かが決定的に変わることは少ない。
それより重みがあるのは、翌日、子が普通に「ママ」と呼んできたときに、こちらが普通に応えられるかのほうだ。
- 言われた直後: 「そうか」「悲しいな」と、自分の感情だけを短く返す程度で十分
- その日の夜: ひとりで深呼吸し、必要なら家族や友人に話を聞いてもらう
- 翌朝: 何ごともなかったように接する。蒸し返さない
子の側は、前日の発言を覚えていないことすらある。関係を続ける力のほうが、瞬間に正しく返す技術よりはるかに大事だ。
言葉をそのまま書き残しておく
その日に言われた言葉と、自分がどう感じたかを、短くてよいから書き残しておく価値がある。
2026/05/12 18:40 / 「ママあっちいって」 / お風呂を嫌がっていた / 自分: 想像以上に効いた
このメモは、当面のあいだは見返したくないかもしれない。それでもよい。数年経ってから読み返すと、当時の動揺と、いまの関係の対比が見える。
たとえば 3 歳のときに「ママ嫌い」と泣かれた子が、6 歳のときには「ママ、お仕事おつかれ」と言うようになっている。同じ子だ。同じ親子だ。あいだにあったのは、特別な秘訣ではなく、続いた日常だった、と気づく。
Memori のような育児記録アプリでも、メモアプリでも、紙でもよい。形式ではなく、「言われた言葉」と「自分の心の動き」を、加工せず一緒に置いておくことに価値がある。
ただし、危険信号は別物として扱う
ここまでは「よくある『ママ嫌い』」の話だった。しかし、すべてを同じ枠で扱うのは誠実ではない。
次のような状況では、「気にしないで」では片づけられない。
- 極端な拒絶の言葉が、毎日のように、長期間続いている
- 子の表情に、以前と明らかに違う硬さがある
- 親の側が、その言葉を聞くたびに動悸や涙が止まらず、生活に支障が出てきている
- 子に手をあげそうになる、あるいは子と関わるのが怖いと感じる瞬間がある
これらは、親の根性や愛情の問題ではない。心と体が「ひとりで抱えるのは限界に近い」と教えてくれているサインである。
近年の研究では、こうした状態を「親の燃え尽き(parental burnout)」として独立した症候群: 複数の症状が同時に現れるひとまとまりの病態と捉える動きがある。Mikolajczak らがベルギーの親 2,000 名超を対象に行った調査では、親の燃え尽きの重症度が高いほど、児への暴力・ネグレクト: 子の基本的なニーズ(食事・衛生・医療など)を放置または無視する養育不全傾向が独立して上昇し、その関連はワーク・バーンアウトや抑うつ: 気分の持続的な落ち込みや意欲の低下を特徴とする精神状態症状とは別に成立していた [3]。「育児が苦しい」は、性格でも愛情不足でもなく、資源不足のサインとして扱える領域だ。
そして日本の現実として、こども家庭庁が公表した令和 5 年度(2023 年度)の児童相談所における児童虐待相談対応件数は 225,509 件で、前年度から 5.0% 増、過去最多を更新している [4]。これは「自分が特別に追い詰められている」ことではなく、社会の側に支援の必要が広がり続けていることを示す数字だ。第三者に手を伸ばすことは、平均的な選択肢のなかにある。
接続先は、状況に応じていくつかある。
- 保育園・幼稚園の担任、保健師
- 自治体の子育て世代包括支援センター(こども家庭センター)
- 児童相談所虐待対応ダイヤル「189」(いちはやく、通話料無料)[5]
- よりそいホットライン、いのちの電話などの匿名相談
第三者に話すことは、降参ではない。抱えているものを正しい大きさで誰かと共有することは、子を守ることと、自分を守ることの両方に効く。早めに使ってよい資源だと知っておくだけで、いざというときの一歩が出やすくなる。
まとめ
「ママ嫌い」は、辞書通りの意味であることは少ない。子は「あなたが嫌い」ではなく「いまの状況が嫌い」を、手持ちのいちばん強い言葉で表現していることが多い。これは語彙発達と心の理論の研究が示してきた、発達上の事実に近い [1,2]。
それでも、言われた側が傷つくのは正常な反応だ。傷を急いで否定せず、いったん認めたうえで、翌日の関わり方を冷静に選び直す。言葉と自分の心の動きを書き残しておけば、数年後の自分にとって確かな材料になる。
そして、ひとりで抱える限界の近くにいると感じたら、第三者に手を伸ばすことを忘れない。親の燃え尽きは性格ではなく資源不足の問題であり [3]、社会の側にもその受け皿は用意されている [4,5]。
「ママ嫌い」と言われた夜は、子のことを考える前に、まず、その夜の自分のことを少しだけ大事にしてよい。
References
- Ridgeway D, Waters E, Kuczaj SA. Acquisition of emotion-descriptive language: receptive and productive vocabulary norms for ages 18 months to 6 years. Dev Psychol. 1985;21(5):901–908. doi:10.1037/0012-1649.21.5.901.
- Wellman HM, Cross D, Watson J. Meta-analysis of theory-of-mind development: the truth about false belief. Child Dev. 2001;72(3):655–684. doi:10.1111/1467-8624.00304. PMID: 11405571.
- Mikolajczak M, Brianda ME, Avalosse H, Roskam I. Consequences of parental burnout: its specific effect on child neglect and violence. Child Abuse Negl. 2018;80:134–145. doi:10.1016/j.chiabu.2018.03.025. PMID: 29604504.
- こども家庭庁. 令和 5 年度 児童相談所における児童虐待相談対応件数. 2024. https://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/a176de99-390e-4065-a7fb-fe569ab2450c/5fbbaa2e/20250327_policies_jidougyakutai_32.pdf
- こども家庭庁. 児童相談所虐待対応ダイヤル「189」について. https://www.cfa.go.jp/policies/jidougyakutai/gyakutai-taiou-dial/