生後0〜3ヶ月、写真より先に1行のメモを残してほしい理由

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対象
0〜1歳の子の保護者
文字数目安
2,400字
ステータス
ドラフト v2(査読付き論文ベースに出典付与)

リード

新生児の写真フォルダは、退院から1ヶ月もすれば数百枚に膨れ上がる。寝顔、あくび、ミルクを飲んだあとの放心、沐浴後の上気した頬。一枚ずつ見れば確かにかわいいのに、半年後にスクロールすると、なぜか「どれも同じ顔」に見えてくる瞬間がある。

写真は嘘をついていない。撮った日付も時刻も正確に残っている。にもかかわらず、見返したときに浮かんでこないものがある。「なぜ、この一枚を撮ろうと思ったのか」だ。

この記事では、産後すぐの数ヶ月、写真と並行して、あるいは写真より先に、文字を1行残してほしい理由を書く。理由は精神論ではなく、記憶の仕組みと、産後の親が置かれている特殊な状況に根ざしている。

産後の脳と、二種類の記憶

人の記憶は、何が見えたかを保持する視覚的・知覚的な側面と、それが何を意味していたかを保持する意味的・文脈的な側面に分かれる。日常生活では両者は混ざって動くが、慢性的な睡眠不足の下では、後者の定着が露骨に弱くなることが知られている。

産後の保護者は、ほぼ全員がこの状況にある。授乳・おむつ替え・寝かしつけが2〜3時間おきに割り込む生活では、まとまった深い睡眠が取れない。Hoekzema らの MRI 研究では、妊娠を経た脳の構造が出産後 2 年以上にわたって変化し、その変化が母子愛着関連領域の活動と関連することが示されている [1]。「マミーブレイン」と俗称されるものの一部は、こうした神経構造の再配置の途上で起きている現象として読める。怠慢でも能力低下でもない。

なお、客観的な認知課題で大きな低下が一貫して出るかどうかについては議論が残る。妊娠中の認知変化を系統的にレビューした近年の論文では、自己報告では多くの女性が記憶・注意の低下を経験するが、神経心理検査で示される効果量は領域・時期により分散することが報告されている [2]。実感と検査の乖離は珍しくない。だからこそ、主観的に「思い出せない」と感じる出来事を、文字で外部化しておく価値がある

ここで写真の限界が出てくる。写真は構図やその場の光景を残すが、「なぜそのとき、わざわざスマホを取り出したのか」という動機までは残らない。撮った瞬間の構図は残せても、画像のどこにも、そのときの自分の解釈は書かれていない。

数ヶ月後にフォルダを開いたとき、人が思い出したいのはたいてい後者のほうだ。

「文字1行」が記憶のフックになる

ここに文字が入ると、状況は変わる。

「沐浴後、初めて目を開けたままおとなしくしていた」。たった一文だ。けれど、この一文が同じ日付の写真に紐づいていれば、半年後の自分はその場面を立体的に復元できる。お湯の温度を確かめた指先の感触、耳元で聞こえていた換気扇の音、その日の自分の安堵まで含めて。

これは記憶研究で検索手がかり(retrieval cue)と呼ばれてきたものに近い。Tulving と Thomson は、符号化時の文脈が後の想起の手がかりとして機能することをとして定式化し [3]、Godden と Baddeley は陸上と水中という極端な文脈差を用いた古典実験で、想起時の文脈が符号化時と一致するほど成績が上がることを示した [4]。文字は写真より情報量が少ないように見えて、実は符号化時の文脈の一部を直接ラベリングするため、視覚情報より重複しにくい強い手がかりになる。

写真は「いつ撮ったか」を残す。文字は「なぜそれが大事だったか」を残す。両者はトレードオフではなく、別々の機能を持っている。

「書く」ことが当事者の心理にも作用する

文字を残す行為には、もうひとつ別系統のエビデンスがある。Pennebaker と Beall が 1986 年に最初に報告した「感情を伴う出来事について短時間書く」介入は [5]、その後 30 年以上にわたって 400 本以上の追試が行われ、Smyth の 13 研究を統合したメタアナリシスでは平均効果量 d=0.47、Frattaroli の 146 RCT を含む大規模メタアナリシスでは小〜中の効果量で、心理・身体・全般機能の改善が一貫して報告されている [6,7]。

産後の文脈で重要なのは、この時期の親自身のメンタルヘルスの脆弱性だ。日本人女性の周産期うつの大規模メタアナリシス(108,431 名)では、産後 1 ヶ月時点の有病率 14.3%、3 ヶ月までの期間有病率 11〜15% と報告されている [8]。EPDS の日本語版(岡野ら 1996、カットオフ 9 点)は感度 75%・特異度 93% で運用されている [9]。1 行のメモは治療ではない。けれど、感情の言語化が認知の整理に作用する経路は、文献上は十分に積み上がっている [5,6,7]。

育児を書き残してきた人たち

少し視点を引いて、歴史を見てみる。

平安時代の『紫式部日記』は、寛弘 5 年(1008)から寛弘 7 年(1010)にかけて、藤原道長の土御門邸での中宮彰子の出産前後の宮中の様子を細かく書き留めた記録として読める [10]。出産そのものよりも、その周辺の人々の表情、儀礼の段取り、自分の心の揺れが、千年経った今も残っている。書き手が書こうと思って書いたから、残った。

近代に下れば、母子健康手帳の前身である「妊産婦手帳」が日本で 1942 年(昭和 17 年)に始まっている [11]。世界で最初に体系的な母子記録の制度を作ったのは日本だとされ、戦後に「母子手帳」(1948)、母子保健法施行(1965)後に「母子健康手帳」へと改称されてきた [11]。乳幼児の成長を文字で残す文化的な土壌は、思っているより古い。

別に大作を書けという話ではない。ただ、「子の今を文字で残す」という行為は、この国でずっと続いてきたごく普通の営みだ、ということは知っておいていい。完璧な日記でなくても、その系譜の末端に自分も座っていると思えると、記録のハードルは少し下がる。

ハードルは「3ワード」まで下げていい

それでも、新生児を抱えた状態で文章を書くのは現実的ではない。授乳しながら片手でスマホを操作する程度が限界だ。

だから提案はひとつ。1日1回、3ワードでいい

主語も助詞もいらない。出来事の核だけ。あとから読み返すのは未来の自分で、未来の自分は当時の文脈をある程度は覚えている。3ワードあれば、そこに残りの情景が後から戻ってくる(符号化特定性の小さな実装である)[3,4]。

時間帯を固定するとさらに楽になる。授乳の合間、寝かしつけ後、朝のミルクのあと。決まった時刻に開く習慣にしておくと、判断のコストが消える。Memori のような記録アプリを使うなら、写真と一緒に1行を添える運用にしておくと、後で月齢順に並べたときに「写真+文字」の対が時系列で復元できる。手帳でもメモアプリでも構わない。器の話ではなく、3ワードを置く場所をひとつ決めておくこと自体が肝になる。

まとめ

産後の数ヶ月は、人生のなかでも特別に密度の高い時間でありながら、もっとも記録しにくい時間でもある。睡眠は削られ、脳は構造的に再配置の途上にあり [1]、出来事は次々に流れ、写真だけが大量に残っていく。

その流れに、文字をひとつだけ差し込む。3ワードでいい。完璧でなくていい。書き続けられなくてもいい。たった1行が、半年後の自分にとって、写真100枚より雄弁な手がかりになる場面が必ず来る [3,4]。

その1行は、いつか子どもに渡すための記録でもあるが、まず何より、眠れない夜を越えていった自分自身への、いちばん早い贈り物になる。


References

  1. Hoekzema E, Barba-Müller E, Pozzobon C, et al. Pregnancy leads to long-lasting changes in human brain structure. Nat Neurosci. 2017;20(2):287–296. doi:10.1038/nn.4458. PMID: 27991897.
  2. Davies SJ, Lum JA, Skouteris H, Byrne LK, Hayden MJ. Cognitive impairment during pregnancy: a meta-analysis. Med J Aust. 2018;208(1):35–40. doi:10.5694/mja17.00131. PMID: 29320671.
  3. Tulving E, Thomson DM. Encoding specificity and retrieval processes in episodic memory. Psychol Rev. 1973;80(5):352–373. doi:10.1037/h0020071.
  4. Godden DR, Baddeley AD. Context-dependent memory in two natural environments: on land and underwater. Br J Psychol. 1975;66(3):325–331. doi:10.1111/j.2044-8295.1975.tb01468.x.
  5. Pennebaker JW, Beall SK. Confronting a traumatic event: toward an understanding of inhibition and disease. J Abnorm Psychol. 1986;95(3):274–281. doi:10.1037/0021-843X.95.3.274. PMID: 3745650.
  6. Smyth JM. Written emotional expression: effect sizes, outcome types, and moderating variables. J Consult Clin Psychol. 1998;66(1):174–184. doi:10.1037/0022-006X.66.1.174. PMID: 9489272.
  7. Frattaroli J. Experimental disclosure and its moderators: a meta-analysis. Psychol Bull. 2006;132(6):823–865. doi:10.1037/0033-2909.132.6.823. PMID: 17073523.
  8. Tokumitsu K, Sugawara N, Maruo K, Suzuki T, Shimoda K, Yasui-Furukori N. Prevalence of perinatal depression among Japanese women: a meta-analysis. Ann Gen Psychiatry. 2020;19:41. doi:10.1186/s12991-020-00290-7. PMID: 32607122.
  9. Okano T, Murata M, Masuji F, et al. Validation and reliability of Japanese version of EPDS (Edinburgh Postnatal Depression Scale). Arch Psychiatr Diagnost Clin Eval. 1996;7:525–533.
  10. 山本淳子. 紫式部日記の表現と『源氏物語』作者の自意識. 京都先端科学大学人文学部紀要. (『紫式部日記』寛弘5〜7年成立、土御門邸での彰子出産記録の一次資料)
  11. 厚生労働省. 母子健康手帳の交付・活用の手引き. 平成 24 年 3 月. (妊産婦手帳 1942 年制定から母子健康手帳への沿革)https://www.niph.go.jp/soshiki/07shougai/hatsuiku/index.files/koufu.pdf