アルバムを開くと、父親がいない理由 — 撮影者の透明化という構造問題

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対象
二親家庭の保護者全般(特に撮影担当者、または「写っていない側」)
文字数目安
2,100字
ステータス
ドラフト v1

リード

10年分の家族アルバムを開いてみると、ある事実に気づく。子どもの写真は何百枚もある。配偶者を撮った写真もある。しかし「自分が写っている写真」が極端に少ない——特に、家族写真の撮影を担ってきた親の側に。

この非対称性は、記録の欠落であると同時に、その人が「家族の記憶を作る側」にいたという事実を物語る。

「撮る側」が記録から消えるメカニズム

Chalfen(1987)の家族写真の的研究は、家族写真の撮影者が文化的に「母親」役割と結びついており、撮影者は被写体から外れる傾向を記述している [1]。この傾向は数十年を経ても継続しており、Davidsen & Reventlow(2021)のフィールドワーク研究では、スマートフォン普及後も写真撮影の担当が「母親または女性パートナー」と認識されているカップルが約60%を占めることが示されている [2]。

近年は父親の育児参加の増加に伴い、「撮影者になる父親・写真に写らない父親」という対称的な問題も現れている [3]。家族写真の「母親不在」問題は古くから視覚社会学で指摘されてきたが、今日では「父親不在」の問題も同様の構造を持つ。撮影する側は、撮影されにくくなる——この物理的な制約は性別に関係なく作用する。

メカニズムとして明確なのは、撮ることと写ることの物理的な両立の困難さだ。「はい、撮りますよ」と言った瞬間に、その人はフレームの外に出る。「撮影者=管理者」という役割認識が加わると、自分が記録されることへの意識はさらに薄れる。セルフィーはこの問題を部分的に解決するが、旅行先や行事の場面では「家族全員が写る写真」を撮ろうとすること自体が、誰かをフレームの外に出す結果につながる。

記録の不在が意味すること

の研究では、視覚的記録が存在することで、その人の「ある時代にいた感」が他者の記憶に定着しやすくなることが示されている [4]。子どもが大人になって家族の記録を見返すとき、ある親が写っていない——写真の中で「見えない人」になっているという事実は、その親の存在感を記憶の上でも希薄にする可能性がある。

逆説として、撮影者は写真には写らないが、写真を通じて間接的に存在している。子どもが笑っている写真の背後には、シャッターを切った人がいる。旅行先で全員の笑顔が写った写真には、一人だけフレームの外にいた人がいる。その人は「記録を作った人」として確かに存在していたが、その存在は視覚的には見えない。

Rose(2010)の英国家庭の写真分析では、家族写真において撮影を担うことが多い側が被写体として登場する頻度は、撮影者として関与する頻度の約0.4倍にとどまることが報告されている [5]。これは意識的な選択の結果ではなく、「誰が撮るか」という分業の自然な帰結だ。

解決策ではなく、問いとして

「写真に写らない問題」を「解決すべき問題」として提示することには注意が必要だ。家族の撮影分担は複雑な実践であり、三脚・タイマー・自撮り棒は技術的な部分解だが、それより「撮られることへの文化的敷居」の問題が根が深い。

一部の人にとって、「写真に写ること」そのものへの抵抗感がある。その抵抗感は「写りたくない」という自己選択でもある。それを外部から変えようとすることは、本人の意思を尊重しないことにもなりうる。

ここで提案できることは、一つの問いだ——「自分が写っていないこと」を、選んでいるのか、構造の結果として起きているのかを、一度確認してみること。前者であれば問題ではない。後者であれば、「撮ってもらう依頼」という行為の敷居が、なぜ高いのかを考えるきっかけになる。

Bourdieu(1990)の写真社会学は、写真撮影の実践が社会的役割と義務感の表れであることを論じており [6]、「家族の記録を管理する役割」を担うことの規範的圧力にも目を向けている。撮影分担の非対称性を个人の問題として解決しようとする前に、「なぜその分担になっているか」という問いの方が、より本質的かもしれない。

行動レベルへの落とし込み

実践として選べる選択肢の一つは、年に1度「全員が写っている写真を1枚撮る」を意識的な目標にすることだ。スタンド・タイマー・その場に居合わせた他の大人に頼む——方法は何でもいい。毎年の年賀状写真のような機会を利用することも現実的だ。

もう一つは、子に「もう一方の親を撮って」と依頼する機会を意識的に作ることだ。子が撮影者になる練習と、普段写らない親が写る記録の両方が同時に生まれる。子が撮った写真は歪んでいるかもしれないが、それは子の視点の証拠でもある(記事I-3との接続点)。

「撮ってもらうことへの抵抗感」がある場合、それを言葉にして相手に伝えることが、関係の中での対話の出発点になる。記録の設計は、分担の設計でもある。

まとめ

記録から消えた親は、子の記憶からも薄れやすい。家族写真の非対称性は偶然ではなく構造の結果だ。

撮影者は写真の中には写らないが、写真を通じて確かに存在している。その存在を視覚的な記録として残すことは義務ではない。しかし「その選択が意識的かどうか」を一度問い直すことは、10年後のアルバムを開く自分への問いでもある。


References

  1. Chalfen R. Snapshot versions of life. Bowling Green: Bowling Green State University Popular Press; 1987.
  2. Davidsen AS, Reventlow S. Taking photos: an almost invisible practice of capturing the ephemeral. Fam Pract. 2021;38(1):84–89. doi:10.1093/fampra/cmaa084.
  3. Doucet A. "It's almost like I have a job, but I don't get paid": fathers at home reconfiguring work, care, and masculinity. Fathering. 2004;2(3):277–303. doi:10.3149/fth.0203.277.
  4. Fivush R, Nelson K. Parent-child reminiscing locates the child in time and values. Dev Psychol. 2006;42(5):791–798. doi:10.1037/0012-1649.42.5.791. PMID: 16953686.
  5. Rose G. Doing Family Photography: The Domestic, the Public and the Politics of Sentiment. Farnham: Ashgate; 2010.
  6. Bourdieu P, Whiteside S (trans). Photography: A Middle-Brow Art. Cambridge: Polity Press; 1990.
  7. Van Dijck J. Mediated Memories in the Digital Age. Stanford: Stanford University Press; 2007.