リード
ある日、子が玄関で靴を履きながら「だってもうお兄ちゃんだもん」と言う。下の子が生まれたわけでもない。誰かに言われたわけでもないように見える。それでもその日から、自分のことを少し違う言葉で語り始める。
その一方で、夜の歯磨きでは「ママが磨いて」と甘え、保育園の朝には「だっこ」とせがむ。前進と退行のあいだを行ったり来たりする時期だ。
5〜6 歳は、子どもが「自分とは誰か」を、それまでよりも明確な輪郭で語り始める時期にあたる。鏡の前で自分を認識するという乳児期の課題から続く長い線の、ひとつの結節点である。この記事では、自己概念が立ち上がるとはどういうことかを、発達心理学の古典研究を経由しながら整理する。
鏡の前から始まる長い線
自己認識の研究で最も引かれる古典が、Lewis と Brooks-Gunn による 1979 年の鏡像課題(mirror self-recognition test)である [1]。子の鼻にこっそり口紅で印をつけ、鏡を見せたときに、鏡の自分ではなく自分自身の鼻を触るかを観察する。この行動が安定して見られるのは、おおむね 18〜24 ヶ月とされ、ほぼすべての定型発達児が 24 ヶ月までに通過する [1]。
ここで現れるのは、「鏡に映っているのは自分だ」という、最も原初的な自己 — 身体的な自己 — の認識である。Howe と Courage は、この身体的自己(cognitive self、認知的自己とも訳される)の成立が、その後の自伝的記憶の前提条件になると論じた [2]。自己という参照枠が立たないうちは、出来事は「自分に起きたこと」として組織化されないため、長期的な記憶として残りにくい、という議論である。これは多くの大人が 3〜4 歳以前の出来事をうまく思い出せない「幼児期健忘: 3〜4歳より前の自分の出来事を、大人になるとほとんど思い出せない現象。自己や言語の発達と関係するとされる(infantile amnesia)」の説明としても提示されてきた [2]。
5〜6 歳に至るまでの数年間、子どもはこの身体的自己の上に、心的自己(自分の好み・能力・特徴)と、社会的自己(他者からどう見られるか)を少しずつ重ねていく。Susan Harter の self-system theory: 自己を「主体としての自己(I-self)」と「対象としての自己(Me-self)」の二側面から捉え、発達的に重なっていくと整理する理論は、この積み重なりを「I-self(主体としての自己)」と「Me-self(対象としての自己)」の発達的変化として描いた古典である [3]。
5〜6 歳の自己記述に起こること
幼児期前半(2〜4 歳)の子に「あなたはどんな人?」と尋ねると、返ってくる答えはたいてい、外的・観察可能なものに偏る。「お絵かきが好き」「赤い靴持ってる」「走るのが速い」といった具合だ。Harter はこれを「具体的・観察可能な自己記述」と呼び、幼児はまだ自己を抽象的な特徴の束として捉えていないと整理した [3]。
これが 5〜6 歳になると、徐々に変化する。「絵がうまい子」「お友達にやさしい」「ちょっとはずかしがり」のように、行動の集合を一段抽象した語り方が出始める [3]。同時に、できることとできないことを比較する語彙、つまり「○○ちゃんよりうまい/うまくない」のような社会的比較も入り込んでくる。社会的比較は幼稚園後期から児童期にかけて急増することが繰り返し報告されている [3]。
並行して進むのが、自伝的記憶の組織化である。Nelson と Fivush は 2004 年の Psychological Review 論文で、自伝的記憶が単一の能力としてではなく、基礎的な記憶能力、言語、養育者との会話(memory talk)、時間理解、自他理解という複数の要素から、就学前期にかけて段階的に立ち上がる「社会文化的発達理論」を提示した [4]。「お正月、おばあちゃんちで何したっけ?」を養育者と何度も語り直すことで、出来事は時系列を持った「自分の物語」として再構成される。5〜6 歳は、この語り直しの語彙と構造が一気に厚くなる時期にあたる [4]。
「もう赤ちゃんじゃない」という発話は、こうした自己概念の構造変化が表面に出てきた一端と読むことができる。それは単なる成長宣言ではなく、過去の自分(赤ちゃんだった自分)と現在の自分(お兄ちゃん/お姉さん)を時間的に区別し、後者に価値を置こうとする、自己組織化の作業の一部である。
退行は失敗ではなく構造の一部
ここで丁寧に分けたい論点がある。「お兄ちゃんになった」と言う日と、夜に「だっこして」と泣く日は、矛盾していない。
自己概念の発達は連続的だが、5〜6 歳児の自己評価はまだ非常に不安定で、状況によって大きく揺れることが指摘されている [3]。Harter は、幼児期の自己評価が現実的というよりは肯定的に過大評価される傾向と、状況依存的に変動する性質を併せ持つと整理しており、これは安定した自己評価が立ち上がる児童期中期までの過渡期に特徴的な姿である [3]。
つまり、子が「お兄ちゃんになった」と宣言した翌日、保育園の門の前で泣き崩れる、というのは、自己概念の後退ではなく、まだ硬化していない自己像が状況に応じて柔らかく動いている、ということだ。退行を「がっかりすること」として扱うと、子は安全に退行できる場所を失う。安全に退行できないと、かえって自己の語り直しが止まりやすくなる。
「もう赤ちゃんじゃないんでしょ」という大人の言葉は、励ましのつもりでも、まだ柔らかい自己像に対しては、思った以上に重い負荷をかけることがある。
保護者にできること — 語彙と記録
5〜6 歳の自己概念の立ち上がりに対して、保護者ができることは、案外シンプルな 2 つに集約できる。
ひとつは、子の自己記述の語彙を狭めないこと。「○○な子だね」と特徴を 1 つに固定する代わりに、「絵を描いてるときは集中するね」「眠いときは甘えたくなるね」のように、状況と結びつけた言葉で返す。これは Harter が指摘した「具体的・観察可能な自己」から「抽象的特徴」への移行を、不自然に急がせない態度に近い [3]。
もうひとつは、過去の自分を語り直せる素材を残しておくこと。Nelson と Fivush が示したように、自伝的記憶は養育者との会話を通じて組織化される [4]。「赤ちゃんのときの写真見たい」と子が言ったとき、すぐに見られる場所に乳児期の記録があると、語り直しの密度は上がる。Memori のような時系列で残る記録の意味は、子が将来「自分史」を編集する素材を確保しておくことにある。記録は親の記憶の保存装置だが、長い目で見ると、子自身の自己物語の素材庫でもある。
そして、退行を許容する余地を意識的に確保する。「もうお兄ちゃん」と「だっこして」が同じ週に共存する、というのは、自己概念が硬化途中のサインであり、まだ柔らかさが残っているからこそ、これからの数年で滑らかに変化していける。
まとめ
「もう赤ちゃんじゃない」は、ひとつの宣言として現れるが、その背後には、鏡像課題から始まる長い自己認識の発達線がある [1,2]。5〜6 歳の自己概念は、具体的な特徴の列挙から抽象的な自己像へ、状況依存的な自己評価から安定した自己評価へ、社会的比較を吸収しながら厚みを増していく途中にある [3]。並行して、自伝的記憶は養育者との対話を通じて時系列を獲得する [4]。
宣言と退行は矛盾しない。むしろ、両方が出る時期だからこそ、今しか聞けない言葉と、今しか撮れない後ろ姿がある。それを残しておくことが、子が将来、自分のことを語り直すときの、いちばん静かな贈り物になる。
References
- Lewis M, Brooks-Gunn J. Social Cognition and the Acquisition of Self. New York: Plenum Press; 1979.
- Howe ML, Courage ML. The emergence and early development of autobiographical memory. Psychol Rev. 1997;104(3):499–523. doi:10.1037/0033-295X.104.3.499. PMID: 9243962.
- Harter S. The Construction of the Self: A Developmental Perspective. New York: Guilford Press; 1999.
- Nelson K, Fivush R. The emergence of autobiographical memory: a social cultural developmental theory. Psychol Rev. 2004;111(2):486–511. doi:10.1037/0033-295X.111.2.486. PMID: 15065919.
- Howe ML, Courage ML. On resolving the enigma of infantile amnesia. Psychol Bull. 1993;113(2):305–326. doi:10.1037/0033-2909.113.2.305.
- Fivush R, Nelson K. Culture and language in the emergence of autobiographical memory. Psychol Sci. 2004;15(9):573–577. doi:10.1111/j.0956-7976.2004.00722.x.